【渡良瀬川東岸にある古河城本丸跡】
茨城県古河市に古河城(こがじょう)本丸跡があります。
明治6年(1873年)に政府の廃城令によって城の取り壊しが決定し、翌年に建造物が破壊され、
明治43年(1910年)に渡良瀬川の大規模な改修工事が始まり大正14年には城跡もほぼ消滅…
2016年5月に訪れたときは「古河城本丸跡」と書かれた標柱と説明板が設置されているのみでしたが、現在もそんな感じでしょうか。
古河城は歴史を書き出すと長くなってしまうので、ざっくりお伝えします。
古河城の歴史
古河城は平安時代、源頼朝(みなもとのよりとも)に従った武将・下河辺行平(しもこうべ ゆきひら)が古河の立崎(竜崎)に城をつくったことが始まりです。
室町時代から戦国時代にかけては古河公方(こがくぼう)・足利成氏(あしかが しげうじ)の本拠となり、代々およそ130年間に引き継がれました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が後北条氏(ごほうじょうし)を滅ぼしたあとは、徳川家康に従って小笠原秀政(おがさわら ひでまさ)が入城し、古河城の修復や拡張がおこなわれました。
その後、江戸時代には古河藩の藩庁(役所)が置かれ、歴代藩主の居城となりました。
城下には日光街道の宿場町である古河宿がつくられ、渡良瀬川(わたらせがわ)による河川水運も発達して、交通・物流の重要な場所となり、徳川将軍家が参拝する行事では、岩槻城・古河城・宇都宮城に宿泊した後、日光に入ることを恒例とし、将軍の宿城の一つとしても重視されました。
明治時代、明治6年(1873年)に発布された廃城令によって廃城処分となり、建造物はすべて壊されました。明治時代の末期になると、度重なる渡良瀬川の洪水対策を目的として、16年間の大規模な河川改修事業が始まりました。主要な曲輪はそぎ取られ、堀は埋め立てられて、堤防や河川敷などに変わり、城跡のほとんどが消滅してしまいました。
古河城本丸跡の説明板と風景
古河城本丸跡への行き方
・古河城本丸跡(地図)
【交通アクセス】
・電車
東武日光線の新古河駅から徒歩20分(1.6km)
JR古河駅から徒歩25分(約2km)
自転車で歴史散歩
当時の私が通ったルートは、こちら。
運河水辺公園→江戸川CR(サイクリングロード)→関宿城→境大橋→道の駅さかい→
利根川CR→渡良瀬川CR→古河城本丸跡に到着!(片道2時間30分・約42km)